ユーロシステム、欧州トークン化金融向けAppiaロードマップを公表

目次

はじめに:トークン化金融の夜明けとAppia Roadmapの戦略的意義
第1章: トークン化金融の現状(AS-IS)とユーロシステムの目指す未来(TO-BE)
トークン化の概念とその進化
既存金融市場の課題と非効率性(AS-IS)
ユーロシステムが描くトークン化金融の理想像(TO-BE)
FX市場への含意
第2章: Appia Roadmapの核心:目的、設計原則、そしてフェーズ
Appiaの発表背景と全体像
ユーロシステムの戦略的アプローチ
Appiaの主要な設計原則
FX市場への含意
第3章: ホールセールCBDC(W-CBDC)とDLT決済システムの融合
W-CBDCの定義と重要性
DLT上での決済と清算の効率化
既存のRTGSシステムとの相互運用性
FX市場への含意
第4章: これまでの実験成果からの帰納とAppiaへの演繹:Eurosystemの試行錯誤
EurosystemのDLT関連実験の歴史
プロジェクト・マリアナ(Project Mariana)と国境を越えた決済
プロジェクト・ジェネシス(Project Genesis)と環境債のトークン化
プロジェクト・カストール(Project Castor)とDVP決済
各実験からの教訓とAppiaへの統合
FX市場への含意
第5章: Appiaの技術的骨格:DLT、スマートコントラクト、標準化
分散型台帳技術(DLT)の役割と特性
スマートコントラクトによる自動化と効率化
トークン化金融における標準化の重要性
サイバーセキュリティとプライバシーの確保
FX市場への含意
第6章: 金融市場インフラ(FMI)の変革とAppiaによる課題解決(イシューツリーの活用)
FMIの現状とAppiaが解決すべきイシュー
清算・決済サイクルの短縮とリスク低減
相互運用性と市場の流動性向上
新たなビジネスモデルと市場参加者への影響
FX市場への含意
第7章: 複雑な道のり:法的・規制的課題、リスク管理、ポートフォリオ最適化(PPMの活用)
トークン化金融における法的枠組みの整備
規制上の不確実性と国際協調
運用リスク、決済リスク、サイバーセキュリティリスク
ユーロシステムのプロジェクトポートフォリオ管理(PPM)
FX市場への含意
第8章: グローバルな協力とユーロ圏の競争力強化
BISイノベーションハブの取り組みと国際連携
他の中央銀行・管轄区域のW-CBDC戦略
ユーロ圏の金融市場における国際競争力
FX市場への含意
第9章: Appiaが描く未来:持続可能な金融エコシステムへの貢献
金融イノベーションの促進と経済成長
ユーロ圏のデジタル主権と金融安定性
Appia Roadmapの長期的な展望
FX市場への含意
結論: トークン化金融の未来を切り拓くAppia Roadmap


はじめに:トークン化金融の夜明けとAppia Roadmapの戦略的意義

現代の金融市場は、デジタル化とグローバル化の波に乗り、変革の時代を迎えています。その中でも特に注目されているのが、「トークン化金融」です。ブロックチェーンや分散型台帳技術(DLT)を基盤とするトークン化は、株式、債券、不動産、コモディティといった伝統的な金融資産をデジタルな「トークン」として表現し、発行、取引、清算・決済のプロセスを根本的に変革する可能性を秘めています。この技術は、取引の即時性、透明性の向上、中間コストの削減、そして新たな市場の創出といった多大なメリットをもたらすと期待されています。

このような背景の中、欧州中央銀行(ECB)を中心とするユーロシステムは、2026年3月11日に画期的な「Appia Roadmap for Europe’s Tokenised Finance」(以下、Appia Roadmap)を発表しました。このロードマップは、ユーロ圏におけるトークン化された金融市場の発展を支援し、中央銀行マネーを用いた決済システムを構築するための多角的かつ段階的なアプローチを示すものです。ユーロシステムは、これまでにもホールセール中央銀行デジタル通貨(W-CBDC)やDLTベースの決済に関する広範な実験と分析を行ってきましたが、Appia Roadmapは、これらの知見を集約し、具体的な実装へと移行するための明確な道筋を提示するものです。

Appia Roadmapの発表は、単なる技術的な進展に留まらず、ユーロ圏の金融市場の構造、競争力、そして金融安定性にまで影響を及ぼす戦略的な意味合いを持っています。現状の金融システムが抱える非効率性やリスク(AS-IS)を認識し、より効率的で強靭、かつ革新的な未来の金融インフラ(TO-BE)を構築するための、具体的な行動計画と位置づけられるでしょう。これは、金融市場におけるデジタル変革の最前線にユーロシステムが立ち、その方向性を主導しようとする強い意志の表れであると言えます。

本稿では、金融の研究者および技術ライターの視点から、Appia Roadmapの発表が持つ意義、その詳細な内容、技術的な側面、既存の金融市場インフラへの影響、そして将来的な展望について深く掘り下げていきます。特に、これまでユーロシステムが行ってきた様々な実験の成果がどのようにこのロードマップに統合されているのか、また、法規制の課題やリスク管理へのアプローチ、さらにはグローバルな文脈におけるAppiaの立ち位置についても考察します。

最新の金融動向を理解する上で不可欠なこの取り組みを、読者の皆様に専門的かつ多角的な視点から解説し、トークン化金融が描く未来の一端を共有することを目指します。

第1章: トークン化金融の現状(AS-IS)とユーロシステムの目指す未来(TO-BE)

トークン化金融は、分散型台帳技術(DLT)を基盤として、伝統的な金融資産や非金融資産の所有権をデジタルな「トークン」として表現する概念です。この章では、トークン化の基本概念から、それが現在の金融市場(AS-IS)にどのような変革をもたらし、ユーロシステムがどのような理想(TO-BE)を描いているのかを、「AS-IS / TO-BE」フレームワークを用いて解説します。このフレームワークの目的は、現状と理想のギャップを明確にし、解決すべき課題を抽出することにあります。そのステップは、まず「AS-IS:現在の状態を正確に記述する」ことから始まり、次に「TO-BE:目指すべき理想の状態を定義する」、そして「GAP:両者の差分を埋めるために必要なアクションを特定する」というプロセスを経て課題解決へと繋がります。

トークン化の概念とその進化

トークン化とは、資産の所有権や権利をブロックチェーン上で発行されるユニークなデジタル記号(トークン)で表すプロセスです。これにより、物理的な証書や中央集権的な台帳を介さずとも、資産の生成、移転、管理が可能になります。初期のトークン化はビットコインのような暗号資産に始まりましたが、イーサリアムのERC-20やERC-721といったトークン標準の登場により、様々な種類の資産がトークン化されるようになりました。現在では、不動産、株式、債券、プライベート・エクイティ、さらには排出権や芸術作品など、多岐にわたる資産がトークン化の対象となっています。

トークン化された資産は、プログラム可能なスマートコントラクトによってその機能や移転条件を自動化できる点が革新的です。これにより、決済の自動化、コンプライアンスの組み込み、複雑な金融商品の組成が容易になります。例えば、債券の利払い日や償還日になれば、自動的にトークン保有者のウォレットに利息や元本が支払われるといったことが技術的に可能になります。

既存金融市場の課題と非効率性(AS-IS)

現在の伝統的な金融市場は、長年にわたる進化の中で確立された複雑なシステムであり、多くのメリットを享受している一方で、いくつかの根深い課題を抱えています。これらを「AS-IS」(現在の状態)として記述します。

1. 非効率的な清算・決済プロセス: 株式や債券の取引は、T+2やT+3といった日数を要する清算・決済サイクルが一般的です。これは、取引の確実性を担保するための複数の仲介機関(証券取引所、清算機関、保管機関)を経由する必要があるためです。この遅延は、カウンターパーティリスクや市場リスクを増大させ、資本効率を低下させます。
2. 高い運営コスト: 複数の仲介機関の存在と、異なるシステム間の連携には膨大なバックオフィス業務とITインフラ投資が必要です。これらは、最終的に金融サービス利用者のコストに転嫁されます。
3. 市場の断片化と流動性の課題: 異なる管轄区域や市場インフラ間で取引される資産は、互換性や相互運用性に欠け、市場が分断されています。これにより、特に流動性の低い資産においては、効率的な価格発見や取引が困難になります。
4. 透明性の欠如: 特定の取引情報が限られた参加者にしかアクセスできない場合があり、市場全体の透明性が損なわれることがあります。これは、市場の効率性を阻害し、インサイダー取引などの不公正な行為のリスクを高めます。
5. 複雑なコンプライアンスと規制: 金融取引は、マネーロンダリング対策(AML)やテロ資金供与対策(CTF)、顧客確認(KYC)など、多くの規制要件に縛られています。これらの遵守は必須であるものの、手作業や複数のシステムにまたがるチェックが必要となり、手続きの複雑さとコストを増大させます。

これらの課題は、金融システムの安定性や効率性に影響を与えるだけでなく、新しい金融商品の開発やイノベーションの妨げとなる側面も持ち合わせています。

ユーロシステムが描くトークン化金融の理想像(TO-BE)

ユーロシステムは、Appia Roadmapを通じて、上記のAS-ISで述べた課題を解決し、より堅牢で効率的、かつ革新的な金融エコシステムを構築することを目指しています。これが「TO-BE」(目指すべき理想の状態)です。

1. 即時かつアトミックな清算・決済: DLTとホールセールCBDC(W-CBDC)を組み合わせることで、証券の引き渡しと支払いが同時に行われる「デリバリー・バーサス・ペイメント(DvP)」をリアルタイムで実現します。これにより、清算・決済サイクルが大幅に短縮され、カウンターパーティリスクが劇的に低減されます。
2. コスト効率の向上: 中間機関の削減とスマートコントラクトによる自動化は、運営コストを大幅に削減します。これにより、金融サービスの提供価格が下がり、より広範な市場参加者が利用しやすくなる可能性があります。
3. 統合された流動性の高い市場: 共通のDLT基盤と標準化されたトークンを用いることで、異なる市場や資産クラス間の相互運用性が向上します。これにより、市場の断片化が解消され、流動性が高まり、効率的な価格発見が促進されます。
4. 透明性と監査可能性の強化: DLTはその特性上、すべての取引履歴が改ざん不能な形で記録されます。これにより、市場の透明性が向上し、規制当局による監査が容易になります。ただし、プライバシーとのバランスには慎重な設計が求められます。
5. 規制遵守の自動化と効率化: スマートコントラクトに規制ロジックを組み込むことで、AML/CTFやKYCといったコンプライアンスチェックの一部を自動化し、エラーのリスクを低減しつつ、効率性を向上させることができます。

Appia Roadmapは、これらの理想を実現するための具体的なステップとメカニズムを提供します。特に、中央銀行マネーをDLTベースの環境で利用可能にすることで、トークン化された証券取引における決済リスクを排除し、金融市場の信頼性を根底から支えることを目指しています。ユーロシステムは、このAS-ISとTO-BEのギャップを埋めるためのアクションとして、Appia Roadmapを位置づけているのです。

FX市場への含意

ユーロシステムがAppia Roadmapによってトークン化金融の効率化と統合を進めることは、FX市場に複数の含意をもたらす可能性があります。清算・決済サイクルの短縮とコスト削減は、ユーロ建て金融商品の魅力を高め、結果としてユーロに対する国際的な需要を喚起する可能性があります。例えば、ユーロ圏の金融機関がDLTベースのシステムを通じてより迅速かつ安価に証券取引を行えるようになれば、ユーロ圏外の投資家もユーロ建て資産への投資を増やしやすくなり、ユーロ/米ドル(EUR/USD)やユーロ/円(EUR/JPY)などの主要通貨ペアにおいてユーロの上昇圧力が生じる可能性が示唆されます。

また、W-CBDCの導入は、クロスボーダー決済の効率化にも寄与する可能性があり、これが実現すれば、国際貿易や投資におけるユーロの利用が促進され、長期的にユーロの国際的な役割が強化されるかもしれません。しかし、これは同時に、他の主要中央銀行(例:米連邦準備制度理事会)が同様の取り組みをどれだけ進めるかによって、相対的な影響度が変動します。もしドル圏が後れを取るようであれば、短期的にユーロの相対的な魅力が増し、ドルインデックス(DXY)に対するユーロの構成比率に影響を与える可能性も考えられます。全体として、リスクオンの環境下では、効率化されたユーロ圏市場への資金流入が加速し、ユーロ高につながる可能性が示唆される一方、リスクオフの状況では、DLTシステムの安定性や規制の不確実性が、一時的なユーロ売りの圧力となる可能性も考慮されます。

第2章: Appia Roadmapの核心:目的、設計原則、そしてフェーズ

ユーロシステムのAppia Roadmapは、単なる技術導入計画ではなく、ユーロ圏の金融市場インフラ(FMI)を未来志向で再構築するための包括的な戦略です。この章では、Appiaの発表背景、ユーロシステムの戦略的アプローチ、そしてロードマップを構成する主要な設計原則とフェーズについて詳細に解説します。

Appiaの発表背景と全体像

Appia Roadmapの発表は、ユーロシステムが過去数年間にわたって実施してきたホールセールCBDC(W-CBDC)や分散型台帳技術(DLT)に関する広範な実験と分析の集大成です。これらの実験は、DLTが金融取引の効率性、安全性、そして革新性を高める潜在能力を持つことを明確に示してきました。しかし、DLTベースの金融市場が本格的に機能するためには、信頼性の高い中央銀行マネーが決済手段として利用できる環境が不可欠であるという結論に至っています。民間発行のステーブルコインや電子マネーは、その信用リスクや流動性リスク、相互運用性の課題から、大規模な金融市場インフラにおける決済手段としては不十分であるとされています。

Appiaは、このギャップを埋めるために、ユーロシステムが提供する中央銀行マネーの新しい形式と、DLTベースの決済ソリューションを統合する明確な道筋を提示します。ロードマップは、2024年から2026年にかけて段階的に実施される予定であり、ユーロ圏の金融機関や市場参加者がトークン化された金融資産を安全かつ効率的に取引できるよう、基盤となるインフラを提供することを目指しています。これは、ユーロ圏の金融市場がグローバル競争において優位性を確立し、将来の金融イノベーションのハブとなるための戦略的な一手と位置づけられます。

ユーロシステムの戦略的アプローチ

ユーロシステムのAppiaに対するアプローチは、以下の主要な戦略的要素によって特徴づけられます。

1. 段階的かつ柔軟なアプローチ: Appiaは、一足飛びに大規模な変革を目指すのではなく、段階的なフェーズを通じて実現されます。これにより、リスクを管理しつつ、市場のニーズや技術の進化に合わせて柔軟に調整できる余地が生まれます。初期段階では特定のユースケースに焦点を当て、成功体験を積み重ねながら、徐々に適用範囲を拡大していく方針です。
2. 既存の金融市場インフラとの共存と統合: Appiaは、現在の既存の金融市場インフラ(例えば、TARGET2やTARGET2 Securities: T2S)を直ちに置き換えるものではありません。むしろ、既存システムとの相互運用性を確保し、徐々にDLTベースのソリューションを統合していくアプローチが取られます。これにより、市場参加者は大きな混乱なく新しい技術に移行できるようになります。
3. 中央銀行マネーによる決済の確保: Appiaの核心は、DLTベースの取引において、決済最終性を保証する中央銀行マネーを提供することです。これは、決済リスクを排除し、金融市場の信頼性と安定性を維持するために不可欠です。ユーロシステムは、この目的のために、既存のユーロ預金へのアクセスを拡張する「DLT上で利用可能な既存の中央銀行マネー(DLT-based settlement of existing central bank money)」、そして将来的なホールセールCBDC(W-CBDC)の発行の可能性を検討しています。
4. 市場主導のイノベーションの促進: ユーロシステムは、基盤となる決済インフラを提供することに注力し、その上で民間セクターが革新的なトークン化金融商品やサービスを開発することを奨励します。中央銀行はインフラ提供者としての役割に徹し、競争とイノベーションを阻害しないよう配慮します。
5. 国際協力と標準化への貢献: トークン化金融は国境を越える性質を持つため、ユーロシステムは国際決済銀行(BIS)や他の中央銀行と協力し、国際的な標準化と相互運用性の確保に努めます。これにより、グローバルなトークン化金融エコシステムの発展に貢献します。

Appiaの主要な設計原則

Appia Roadmapは、以下の主要な設計原則に基づいて構築されています。これらの原則は、ロードマップの各フェーズにおける意思決定の指針となります。

1. 安全性と堅牢性: 金融安定性を損なうことなく、新たな技術を導入することが最優先されます。DLT基盤のセキュリティ、レジリエンス、そして中央銀行マネーの安全な利用が保証されなければなりません。
2. 効率性とコスト削減: 取引の即時性、自動化、仲介機関の削減を通じて、清算・決済プロセスの効率性を最大化し、関連コストを削減することを目指します。
3. 相互運用性: 異なるDLTプラットフォーム間、またDLTベースのシステムと既存のFMIとの間のシームレスな連携を可能にすることが重要です。これは、市場の断片化を防ぎ、流動性を確保するために不可欠です。
4. 中立性とオープンネス: ユーロシステムは特定の技術や民間プロバイダーに偏らず、中立な基盤を提供します。これにより、幅広い市場参加者がアクセスでき、競争が促進されます。
5. 規制遵守と法的確実性: Appiaは、既存および将来の法的・規制要件に完全に準拠するように設計されます。また、トークン化された資産や取引に関する法的確実性を高めるための枠組み作りにも貢献します。
6. スケーラビリティと拡張性: 将来的な取引量の増加や新たなユースケースの出現に対応できるよう、システムはスケーラブルかつ拡張性のある設計とする必要があります。

Appia Roadmapは、これらの設計原則に基づき、複数のフェーズを経て展開されます。初期フェーズでは、DLTプラットフォーム上でユーロシステムが提供する既存の中央銀行マネーを証券の決済に利用する可能性を探ります。次のフェーズでは、より広範なユースケースや、必要に応じてホールセールCBDC(W-CBDC)の発行が検討される可能性があります。

FX市場への含意

Appia Roadmapの設計原則と段階的アプローチは、FX市場に対して穏やかながらも持続的な影響を与える可能性を秘めています。安全で効率的なDLTベースの決済システムがユーロ圏に確立されれば、ユーロ建て資産の取引コストが低減し、その流動性と魅力が増すことで、国際的なポートフォリオにおけるユーロ建て資産の比率が増加する可能性が考えられます。これは、ユーロに対する長期的な需要を支え、ユーロ/米ドルやユーロ/円などの主要通貨ペアにおいてユーロを相対的に強固な通貨として位置づける要因となり得ます。

また、既存FMIとの相互運用性を重視し、段階的に導入を進めるアプローチは、市場の不確実性やリスクを抑制し、急激な資本移動や為替変動を回避することに寄与するでしょう。これにより、ユーロのボラティリティが一時的に低下する可能性も示唆されます。しかし、他の中央銀行、特に米連邦準備制度理事会が同様の取り組みをどのように進めるかによって、ユーロの相対的な優位性は変動します。もし他の中央銀行がより迅速かつ大規模なDLT決済システムを導入すれば、ユーロの相対的な魅力は相殺される可能性もあります。リスクオン環境では、ユーロ圏の効率化された金融市場への投資流入が期待され、ユーロ高圧力が強まる一方で、ロードマップの進捗における予期せぬ技術的課題や規制上の不確実性が浮上した場合には、一時的にリスクオフのセンチメントが強まり、ユーロが売られる可能性も考慮されます。

第3章: ホールセールCBDC(W-CBDC)とDLT決済システムの融合

Appia Roadmapの中心的な要素の一つは、分散型台帳技術(DLT)ベースの金融市場において、中央銀行マネーによる安全で効率的な決済を可能にすることです。この章では、ホールセール中央銀行デジタル通貨(W-CBDC)の定義とその重要性、DLT上での決済と清算の効率化、そして既存のリアルタイムグロス決済(RTGS)システムとの相互運用性について深く掘り下げます。

W-CBDCの定義と重要性

中央銀行デジタル通貨(CBDC)は、中央銀行が発行する法定通貨のデジタル版です。その中でも「ホールセールCBDC(W-CBDC)」は、主に金融機関間の大口取引や証券決済など、ホールセール市場での利用を目的としています。リテールCBDC(一般消費者向け)とは異なり、W-CBDCは特定の金融機関に限定されたアクセスを持ち、金融市場の安定性と効率性を高めることに特化しています。

W-CBDCの最も重要な機能は、DLTベースのトークン化された資産取引において、決済最終性を保証する中央銀行マネーを提供することです。現状、DLT上でのトークン化証券の取引は、通常、民間銀行の預金(コマーシャルバンクマネー)やステーブルコインを用いて決済されます。しかし、これらの民間発行のデジタルマネーは、発行体の信用リスク、流動性リスク、そして中央銀行による監督体制の不足といった課題を抱えています。特に、大規模な決済システムにおいては、これらのリスクがシステミックリスクに発展する可能性があり、金融安定性を脅かす要因となり得ます。

W-CBDCは、これらの課題を解決します。中央銀行が直接発行するため、信用リスクがゼロであり、最終的な決済媒体としての信頼性は最も高いです。これにより、DLTベースのトークン化された金融市場において、決済最終性が即座に保証され、カウンターパーティリスクが大幅に低減されます。これは、特に「デリバリー・バーサス・ペイメント(DvP)」などのアトミック決済(証券の引き渡しと支払いが同時に行われること)をDLT上で実現する上で不可欠です。

DLT上での決済と清算の効率化

DLTとW-CBDCの融合は、清算・決済プロセスに革命をもたらします。伝統的な証券取引では、取引約定から決済完了までに複数の仲介機関(中央証券預託機関: CSD、清算機関: CCP、決済銀行など)を介し、数日を要するプロセスです。これは、各機関が個別の台帳を管理し、それらを突き合わせる作業が必要となるため、非効率性とコスト、そして潜在的なリスクを生み出します。

DLTベースのシステムでは、参加者全員が共有する分散型台帳上でトークン化された証券とW-CBDCが直接交換されます。スマートコントラクトによって、証券の引き渡しとW-CBDCの支払いが同時に、かつ自動的に実行されるため、実質的にリアルタイムでの清算・決済が可能です。このアトミック決済の実現は、以下の点で効率化を促進します。

1. リアルタイム決済(Real-Time Gross Settlement: RTGS): 伝統的なRTGSシステムと同様に、各取引が個別に即座に決済されるため、決済リスクが最小限に抑えられます。
2. 中間機関の削減: 共有台帳の利用により、複数の仲介機関による調整作業やバックオフィス業務が簡素化され、関連するコストが削減されます。
3. 資本効率の向上: 決済サイクルの短縮により、取引参加者はより迅速に資金と証券を受け取れるため、必要な担保や流動性プールの保持量を減らすことができ、資本効率が向上します。
4. 運用の自動化: スマートコントラクトは、利払い、償還、担保管理などの業務を自動化し、手作業によるエラーのリスクを低減します。

これらの効率化は、金融市場全体の生産性を高め、新たなビジネスモデルや金融商品の創出を促進する基盤となります。

既存のRTGSシステムとの相互運用性

Appia Roadmapは、DLTベースの決済システムと既存のRTGSシステム(ユーロ圏ではTARGET2)との相互運用性を非常に重視しています。DLTベースの金融市場が直ちに既存のシステムを完全に置き換えることは現実的ではないため、過渡期においては両システムが共存し、円滑に連携できることが不可欠です。

ユーロシステムは、この相互運用性を実現するために、いくつかのメカニズムを検討しています。

1. ブリッジング(Bridging): 既存のRTGSシステムとDLTプラットフォームを接続し、中央銀行マネーをDLT環境に「ブリッジ」するアプローチです。これは、既存の中央銀行預金をDLT上で利用可能にする方法で、DLTプラットフォーム上の取引を既存のT2SやTARGET2の残高で決済する仕組みを構築します。
2. 相互接続(Interlinking): 複数のDLTプラットフォーム間で、あるいはDLTプラットフォームと既存のFMI間で直接的な接続を確立し、異なるシステム間で情報や資産を交換できるようにするアプローチです。
3. W-CBDCとしての独立したプラットフォーム: 将来的に、W-CBDCが独立したDLTベースの決済プラットフォーム上で稼働し、それが既存のFMIと連携する形も考えられます。これは、より長期的なビジョンであり、既存システムへの大規模な改修を伴う可能性があります。

ユーロシステムは、これらのメカニズムを通じて、中央銀行マネーをDLTベースの取引にシームレスに組み込むことを目指しています。これにより、既存システムの安定性を維持しつつ、DLTの革新的なメリットを金融市場に享受させることが可能となります。この相互運用性の確保は、市場参加者が新しい技術への移行コストを最小限に抑え、徐々にDLTベースのソリューションに適応していく上で極めて重要です。

FX市場への含意

ホールセールCBDC(W-CBDC)とDLT決済システムの融合は、FX市場に多大な影響をもたらす可能性を秘めています。まず、DLTを用いたユーロ建て金融商品の清算・決済の効率化は、ユーロ圏の金融市場の魅力を高め、国際的な投資家にとってユーロ建て資産へのアクセスを容易にするでしょう。これにより、ユーロに対する国際的な需要が増加し、ユーロ/米ドルやユーロ/円などの主要通貨ペアにおいて、ユーロの価値を押し上げる潜在的な要因となる可能性が示唆されます。

また、W-CBDCによるクロスボーダー決済の効率化は、外国為替取引のスピードとコストにも影響を与える可能性があります。現状のコルレス銀行システムを介した国際送金と比較して、W-CBDCはより迅速かつ安価な決済を可能にするため、ユーロ圏と他国間での貿易や投資が促進され、ユーロの国際的な利用頻度を高める可能性があります。これにより、ユーロの国際準備通貨としての地位が強化されるかもしれません。しかし、これは他の主要通貨圏(例:米国、英国、日本)が同様のW-CBDCやDLT決済システムを導入する速度や設計によって、相対的な影響が変化します。もしユーロ圏が先行し、他国が遅れを取るようなことがあれば、短期的にユーロの優位性が高まり、ドルインデックスに影響を与える可能性も考えられます。リスクオンの環境下では、効率化された決済システムが資本移動を活発化させ、ユーロ圏への投資流入を加速させる一方で、サイバーセキュリティリスクやシステム障害が発生した場合には、一時的なリスクオフの動きがユーロ売りを誘発する可能性も考慮されます。